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3月11日に起こった東日本大震災は大量の帰宅困難者、計画停電など、首都圏にも大きな影響を及ぼしました。被災地における甚大な被害の様子はテレビやインターネットでも繰り返し伝えられ、紙やインキの供給不足も話題となりましたが、一部では本震よりも4月7日の余震による被害の方が大きかったといった「事実」はなかなか伝わってきません。情報を共有し、私たちが考えるべき支援の形を探るために、宮城県印刷工業組合・理事長の今野氏と専務理事の菅原氏に、被災状況と復興に向けたメッセージをお聞きしました。
(インタビューより)
―― 最初に、宮城県内の被害状況を教えてください。
菅原氏 組合が3月の末で把握しているところでは、届け出のあった沿岸地区以外の60社の被害状況は社屋・工場の一部破損や亀裂が17社、印刷機械などの設備関係の移動が45社、家族を含めた就業者の安否不明が10社、60社とも早期の復旧可能となっています。
深刻なのは気仙沼、南三陸、石巻、塩釜といった沿岸部です。こちらは、確認が取れた22社のうち消失・全壊が5社、床上浸水が6社、設備関係の冠水が11社、家族を含めた就業者の安否不明が6社、早期復旧不可能が12社に上っています。
沿岸部では津波の被害が非常に大きく、ほとんど壊滅状態です。組合では、沿岸部については今年度の組合費を免除しようと考えていますが、何社かは廃業せざるを得ないという厳しい状況です。
今野 津波による被害は甚大で、仙台市若林区も半分以上が浸水しています。
幸い、六丁の目の印刷工業団地までは来なかったわけですが、沿岸部を南北に走る仙台東部道路が防波堤の役割を果たしたような格好になっています。
内陸部には津波の直接的な被害はありませんでしたが、マグニチュード9という激しい揺れによって大きな被害が出ました。我々は1978年に起こった宮城県沖地震でマグニチュード7.4を経験していますが、3月11日の地震はその時と比べようもないくらい、経験したことのないような大きな揺れでした。
―― 理事長と専務理事は地震が起こった時はどちらにいらしたのですか。
今野氏 私は、町中の営業センター(若林区土樋)に、8階建てのビルの8階にいました。その辺りは非常に地盤が固い所なのですが、ものすごく揺れましたよ。
この度の地震は2回揺れたのです。最初に来たのは横揺れで、「あ?、宮城県沖地震が来たな……」と思っていたら、更にそれよりも強い揺れが来た。私は、机を押さえて「早く収まらないかな」と思っていたのですが、2回目の揺れが来ると立っていられなくなって、思わず机の下に潜り込みました。
そうしたら、周りの書類から本からすべて倒れてきて、すっかり埋まってしまったのですね。そこから脱出するのも一苦労でしたが、幸いにして社員にはけがはありませんでした。
地震後、電気は止まっていますし、固定電話も携帯電話もつながらない。通信手段が途絶えてしまいましたから被害の状況が把握出来ません。被害の全ぜん貌ぼうが明らかになったのは、1週間後に電気が来てテレビが映るようになってからでした。
菅原氏 3月11日は、印刷会館(宮城野区扇町)で打ち合わせをしていた時にガーン! と来ました。あれほどに続くとは思っていなかった。途中で、これは尋常じゃないと直感的に分かりました。逃げようとしたのですが、ヨタヨタっとして真っすぐに歩けない。駐車場に出たところ、止まっている車が跳ね上がってしまっている。何とか歩道まで出て、しゃがみ込みました。長かったのですよ。私は宮城県沖地震も経験していますが、その比ではなかったですね。
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本誌では、おふたりのインタビューのほか、震災に関する現地レポートやウェブアンケート調査の結果などを掲載しています。一部を電子ブックでもご紹介していますのでよろしければご覧ください。
『プリバリ印』2011年5月号
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