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印刷原点回帰の旅 ―(6)科学の恩恵として活字―
キーワード: プレス 木活字 膠泥活字 鋳造技術 合金配合技術 ルネッサンス3大発明
何故、印刷や新聞のことを「プレス」というか、知っているだろうか。この言葉は、グーテンベルクの活版印刷に由来する。グーテンベルクが発明した印刷機には、ワインを作るときに使う葡萄圧縮機(プレス)が用いられていた。そのため、次第に加圧(プレス)されたものをプレス(印刷)と呼ぶようになった。プレスという言葉が印刷そのものを指すようになるぐらい、現在の印刷とはグーテンベルクの発明を基礎に成り立っているということである。印刷機・活字・インクのセットをグーテンベルグの発明というが、実際全てを彼が発明したわけではなく、それまでにあった技術をシステムとして集大成したものである。
しかし、このシステムにこそ備わった他にはないものがプレス機の使用である。だが、このシステムの最大の優位性は、何と言っても種々の金属を含む鉛合金を利用した活字鋳造技術なのである。そう、プレス機が既にあったように、活字もグーテンベルクより200年も前に発明されていた。
そもそも活字には、彫刻活字と鋳造活字がある。最初に作られたのは彫刻活字で、現在確認されている最古のものは、中国の膠泥(こうでい)活字といい、紀元1,000年前後に発明されたものもある。これは、土の駒に一文字ずつ文字を手で彫ったものを焼いた陶器製であった。ほかに印鑑と同等の技術である木活字もあった。彫刻活字の発明は早かったが、漢字という何万種類もの文字を活字として持つことも、しかも同じ大きさや字体で彫ることも、当時としては不可能に近かった。そのため活字印刷は定着せず、印刷の主体は木版へと移行した。
一方、鋳造活字は朝鮮の高麗でうまれた。それは銭の技術を応用した銅製で、1403年、李氏朝鮮の時代にその鋳造が本格化した。1592年、文禄の役によって日本にもその技術が伝わり、豊臣秀吉や徳川家康の手によって活字印刷が行われるようになった。しかしこれも、天皇へ献上するような特別なモノとして扱われただけであり、1600年代後半になると中国と同じ理由で、活字印刷は廃れることとなる。グーテンベルク以前の東洋の活字は、漢字の複雑さゆえに発展することなく、情報の伝播の手段としてはあまり役に立たないものだったと言うことができる。
西洋で金属活字を最初に発明したグーテンベルクは、貨幣鋳造職人としてその手腕を高く評価されていたが、貨幣鋳造業ギルドへの加入が認められなかったことをきっかけに、金属活字の開発・研究に没頭することになる。紙の製造が西洋でも本格化しはじめた時代背景や、アルファベットには数十文字しかないこともあって、社会にその開発のための素地が整っていたと言うもできよう。
グーテンベルクが開発した活字鋳造技術とは具体的にどういうものだったのだろう。それは合金の作成に集約される。金属活字をつくるときに重要になるのは、型にスムーズに行き渡る金属の流動性と、固まった時に収縮せず若干膨張するという特性の2点である。
それを実現する微妙な金属の配合度合いが、肝心なのだ。というのも、工業部品である金属活字は当然、同じ大きさ、同じ字体といった同じ基準で作られていなければならないが、それが当時の技術ではなかなか難しかった。グーテンベルクは、それを克服する鉛・スズ・アンチモンから成る合金の配合を開発し、それを使用することで、正確で生産性の高い活字作りを実現した。これが、情報伝播の速度を圧倒的に向上させることになったのだ。
合金の配合技術だけでなく、もちろん、グーテンベルクが優れた鋳造家であり、技術にも優れていたことを忘れてはならない。しかし、これを研究・開発できるだけの金属発掘や流通の進化、科学の発達、そして印刷が必要とされる文化の発展といったルネサンスがもたらした土台が、この発明を社会に広める必須条件でもあったということができる。
そして、グーテンベルクの開発した印刷システムは急速に普及し、大量の印刷物を生み出し、ルネサンス期における情報伝播の速度を飛躍的に向上させた。羅針盤・火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられるまでに成長したのである。