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親子3代にわたって
[若手印刷人リレーエッセイ] これからも父の社訓である「業界発展の為に、企業永遠の為に、より良き人間関係の為に」を信条とし自分の使命を全うしたい。
祖父川嶋勘三郎は1881年京都亀岡で生誕、12歳の時に大阪にある山田染料店へ丁稚(でっち)奉公に出た。独学で染料を勉強しながら神戸にある輸入商シモンエバルス商会を経て、1909年大阪土佐堀に川嶋商店を創業した。勘三郎28歳の時であった。当時の商売は染料の貿易商であったが、さまざまな苦労があったことを「百丈山主懐古録」という祖父の口述記録に記載されている。1922年には京都の妙心寺の雲水(僧)を泊める目的で、大阪香里に大八園を建てた。時を同じくしてこの年、父の荘三郎が誕生している。
1926年、商売の関係で単身欧州に渡った。主にドイツにあるインキ会社を歴訪し商品の試験や買い付けを行っていた。その時たまたまライプチッヒで開催されていた印刷機材博覧会に立ち寄り、偶然ハイデルベルグ印刷機を目にした。勘三郎は高速で自動化された機械に感銘し、日本の印刷業界の発展ためにぜひ輸入したいと考え、その足で本社に向かい総代理店契約を結んだ。私が今印刷業界で仕事をさせていただいている原点がここにある。その後、祖父は世界大戦前夜まで印刷機械輸入商として確固たる地位を築き上げるべく努力を続けた。
父荘三郎は、祖父の影響で化学を専攻し、太平洋戦争では陸軍技術将校として南方に出征した。途中台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で米軍の空襲に合い、乗っていた船が沈没、九死に一生を得たと聞いている。終戦時はジャワ島で石油を掘っていた。終戦後しばらく経った後帰国が許され、1947年に大八園に戻ってきた。祖父の仕事を手伝いながら、1950年に結婚、結婚後祖母の関係から宮城の姓を継いだ。宮城家は山形天童の出身で、天童織田藩の家臣として明治維新を迎えた。祖母方も同じ家臣の出身で、後継ぎのいない宮城から養子縁組が求められ、次男坊であった父がそれを受けたようだ。
1951年に祖父勘三郎は他界した。享年70歳で非常に信仰心も厚く臨済禅の居士でありクリスチャンでもあった。大八園には地蔵尊などさまざまな仏像が立ち並び大勢の僧侶が出入りしていた。祖母貞子は祖父の遺志を継いで、1963年に百丈山仏舎利塔を建立した。非常に人望も厚く立派な人物であったと聞いている。祖父勘三郎がしたためた「家庭訓」は今でもわが家の「家庭訓」として生きている。
私は1955年に荘三郎第三子長男として誕生した。父は、1961年に社名を印刷機械貿易株式会社に変更、社長に就任した。時流に乗って拡大路線を進め、自らトップセールスマンとして日本国中津々浦々まで駆け回った。ところが機械は売れるものの資金繰りが追い付かず、幾度となく資金ショートの憂き目に遭ったようだ。特にオイルショックの1974年にはにっちもさっちもいかなくなり、ハイデルベルグ社の本社に資金援助を依頼、薄氷を渡る思いをした。しかし、この時の資本金注入が後々に父荘三郎の人生に大きく影響を及ぼしたのである。その後徐々に事業も立ち直り、高度成長の波にも乗って全社一丸のがんばりもあり安定成長を続けた。
しかしながら、1987年父が65歳の時、突然ハイデルベルグ本社から会長への引退を要求された。終戦後から40年間人生を賭けて懸命に努力し続けてきた父は、資本の論理とはいえ、むごい仕打ちを受ける羽目となった。さぞ非常に無念でくやしい思いをしたであろうと思う。本社はその後、全世界的に代理店を子会社化しその傘下に収め経営権を手中にしていった。しかし父荘三郎は、長年の業界での実績もあり、ありがたいことにJAGATの会長として迎えられ、また大勢の業界の知人友人に励まされ、その後も充実した日々を送ることができた。今でも喜ばしいことであったと感謝している。
私は3代目として1979年に父の会社に入社、事業継承のために、さまざまな教育を受けながら財務、営業、企画宣伝、マーケティングなどの各部署に従事した。父が会長に退いてからも自分の使命を全うすべく懸命に努力を続けた。その間、業界の大勢の皆様や社員と親交を深め、また深い信頼関係を築くことができた。しかし、本社が経営権を強めるに従い、父の作り上げた社風が徐々に変化し、川嶋宮城家の思いと会社のあり方にズレが出だした。悲痛な思いの中で、父に相談し2002年ハイデルベルグジャパンを退社した。自分の心を殺してまでこの会社で仕事を続けることができなかったのだ。
ちょうどその時今までお世話になった方々のあいさつ回りをしていたら、帆風の犬養社長からお誘いがあり、本当に素晴らしいお話だと思い、お世話になることにした。機械販売の立場から機械を使う立場に180度転換、印刷業の経営に取り組んだ。犬養社長の下、厳しい中にもさまざまな経験を積むことができた。しかしながらそれまで積み上げてきた印刷業界とのつながりは徐々に疎遠になってしまった。
2007年父が85歳で他界した。それを契機に業界との仕事の取り組みの気持ちが強くこみ上げてきて、犬養社長のお許しを得て退社した。その直後にマンローランド社から誘いがあり、かつては競合メーカーであったことから、家族や親せき、また業界の方々に相談した。みんなは父の晩年のこともよく知っており、その思いから私の背中を押してくれた。私自身大変な心の葛藤(かっとう)はあったが最終的に、マンローランドジャパンの社長を引き受けることにした。マンローランド社は、ドイツに本社がありオフセット印刷機械メーカーとして歴史が最も古く、世界最大である。これも何かの縁であると思う。祖父の時代から3代、いろいろな時代を経て今あることに感謝したい。これからも父の社訓である「業界発展の為に、企業永遠の為に、より良き人間関係の為に」を信条とし自分の使命を全うしたい。
宮城 荘一郎(みやぎ そういちろう)。1955年7月1日生まれ、53歳。大阪府寝屋川市出身。小樽商科大学およびロンドン印刷大学卒。ハイデルベルグジャパン株式会社常 務取締役、株式会社帆風専務取締役を経て現在、マンローランドジャパン株式会社代表取締役社長。趣味は旅行、読書、下手なゴルフ。
マンローランドジャパン株式会社
2000年設立。枚葉機や輪転機のオフセット印刷機械総合メーカー、ドイツ マンローランド社の子会社。
『JAGAT info』2009年6月号




